2015年09月28日

悪く知


今日は、ちょっと偉そうに書いてしまいます。


「人のこと馬鹿っていうやつが馬鹿なんだぞ」


いつ出会った言葉なのかは正確に思い出せません。小学生だったのか中学生だったのか。もしかしたらもう少し後だったのかも。大人になってからも、何度か聞いたことがある。

これは、平たく言うと

「人の悪口を言うな」

ということ。子供に対する教育の一貫としては、ある意味ユニークなアプローチだと思います。

しかし私たちは大人になっていく過程で “自分は言ってないつもりでも、けっこう言っている”とか “愚痴という名の悪口なら言った方がよい。ため込まず吐き出すことが大事で、それを聞いてあげるというスタンスも大切”とか “愛情が感じられたり、相手を高めるための批判なら良い” とか、悪口がある意味市民権を獲ていくことを知っていく。

『他人の不幸は蜜の味』 なんてドラマもあったし、居酒屋の夜な夜なは、あれやこれやの悪口こそが売り上げに貢献しているだろう。アルコールも、悪口エスカレートの燃料として大活躍だ。



一昨々日“宗清さんとの会話からインテリジェンスを感じた” と書きましたが、昨日たまたまFacebookにてシェアされていた

『知的であるかどうかは、五つの態度でわかる』

という文章を読んで、自分には似合わない知性という言葉が続いて飛び込んできたので、驚いてしまった。(たまたまでしょうし、それこそたまたまピックアップしてたので目に入ったのだろうが)

【私達は「頭が悪い」と言われることを極端に嫌う。知性が人間そのものの優劣を決めるかどうかは私が判断するところではないが、実際知的であることは現在の世の中においては有利であるし、組織は知的な人物を必要としている。だが、「どのような人物が知的なのか」ということについては多くの人々の判断が別れるところではないだろうか】

という言葉から始まるこの文章、とても興味深いものでした。これを読みながら、ストンと音をたてて府に落ちたことがある。

私たちが生きていくのに、他人への批判や悪口はある意味不可欠なのでしょう。皆、自分が正しい、賢いと示したいから、正論が如く誰かを悪く言い、我が存在を保とうとする。

ただ人が言ってる悪口は、それこそ自分ものっかって言いたかったり、言ってる目の前の人を蔑んで見たかったり、吐き出させて楽にしてあげたいなんて気持ちなら、聞きたいというテイストもあるだろう。しかし基本、他人の悪口は好んで聞きたいものではない。

なぜか…

悪口そのものがどんなに正統性があっても、言ってる内容や言ってる人の言葉や顔からは

“知性が感じられない”

から。愉しそうに話すならなおさら。

そう考えると、「人のこと馬鹿って言うやつが馬鹿」というのは、そういうことかと納得できる。知性が感じられないのだから馬鹿に見えると。


これは、悪口自体を否定的に見ている意見ではありません。弱っちい人間という存在、その人生の時間には必要なものでしょう。

しかし言い方や話のもっていき方のセンスは持ちたいし、目的意識くらいは自覚できた方がいい。

本人悦に入って喋ってて、捨てたくない知性も一緒に口から出してしまってる可能性ありますから。


こんなこと書くこと自体、知的じゃないすね。

あ〜、本能って罪。


川越へ。
posted by take at 21:10| 活動報告