2015年09月13日

聴ききる


聴衆として、演奏の細部を聴こうとする、聴こえてしまう演奏というのは、流れとしては停滞しているのかもしれない。

細部まで細やかな魅力がちりばめられていることは、素晴らしいことであろう。しかし、聴き手がその瞬間をピックアップして感じているということは “その後” へ連れていってもらえてないことになる。

そんな演奏は、少々長く感じたりする。

日本人は、オーケストラをやるにしても指揮をやるにしても、やり手が

「どれくらい勉強しているか」

を重要視し評価する傾向がある。

どのくらい準備するかは大事だと思うが、問題はその内容で、演奏のディテールを細かく

“研究し、設定”

しなければ仕上がらないのだとしたら、出来上がった全体を、

“自然体で聴ききる歓び”

は薄くなるかもしれない。

ある演奏家がつぶやいたのを聞いたことがある。

「勉強どうこうじゃなくて、いい棒振る人は振るよ」

勉強以前に感性こそが必須で、理屈や理論を超えた感覚にこそ人は脱帽するのだろう。


演奏からやたら細かいテクニックが聴こえてきたり、アイデア的に感じるものもそうかもしれない。

ただ、演奏のスタイルはいろいろあっていいし、印象が画一的になる必要はないからいいっちゃあいい。テクニックを聴かせたい人からテクニックが聴こえ、それを聴きたい人もいるだろうし、アイデアを聴かせたいからアイデアが聴こえ、普通のに飽きた人はそんな演奏を聴きたがるだろうし。

ただ、西洋音楽の根幹にある、楽譜を、自然に止まらず、最後まで互換性をもって流しきった時に訪れる、

“グッとくる感じ”

この本物の感動というのは、研究を好む考察重視型や、オリジナル自己愛的人生観では得られないのかもしれない。

だんだん、そんな気持ちが強くなってきました。


ブロカート、本番。

posted by take at 09:29| 活動報告