2015年09月09日

チャイコフスキーが教えてくれること


「無人島に何か一曲持っていくなら、迷わずチャイコフスキーの5番だ」

そんな人もいたりする、当代きっての人気作品。この日曜日にブロカートの本番があり、オーケストラはこの曲にトライします。葛飾シンフォニーヒルズ、14時開演です。

コンサートのプログラム、その曲目解説を家人が書いたのですが、チャイコフスキーの関連書物をいくつか読みながらの執筆で、その過程で僕がしらなかったようなこともいくつか教えてくれました。



「私はいつも喋りたいことがあるので、それを音楽という言語の中で喋っているのです」


これは、チャイコフスキーが手紙の中で書いていること。常に喋りたいことがあったようです。

幼少の頃、音楽に対して異常なほどの興味を示したそうで、ピアノを弾くと過剰に興奮してしまうため、家庭教師が 「音楽は彼にとって害悪なもの」 と言ったほど。しかし、両親は音楽に熱中する息子のためにピアノ教師を雇い、オペラやバレエにも連れて行ったことが、彼にとって作曲こそが何よりも重要なことになっていったことに、大きく影響しているのでしょう。

「チャイコフスキーの音楽は感情的すぎて規律がない」という批判があります。それを誰より自覚していたのは彼自身だった。兄弟の中で人一倍 “陶磁器のように繊細で感じやすい子供” だった彼は、生涯を通じて神経症の発作や鬱状態にも悩まされていた。


いつも喋りたいことがあるのに人一倍ナイーブで、音楽には異常なまでの興味。


そんな人にとって、音楽こそが言葉になるのは自然な流れですね。想像力や発想はいくらでもあり、それが旋律になり感傷的な和声になりとめどもなく涌き出てくる。しかしそれらを作品にふさわしい形式にまとめることが難しく、随分苦しんだようなのです。彼にとっては、いくつものフレーズを削り、まとまったひとつの音楽で表現しきれるようにすることが困難なほど、

溢れる感情 = 音

だったのでしょう。


私たちは楽器での表現となりますが、日頃チャイコフスキーと同じくらい、感情を音に込められているだろうか。まず感情が溢れ出ないと話にならないし、しかもそれを、苦心して音に

“まとめあげる”

ほどの取り組み。本当にそんな風に向き合っているだろうか。


少なくともチャイコフスキーを演奏する時は、乱れる如く感傷的に、ではなく、彼の情緒に響いた私たちの心が音に溢れる、そんな演奏を探す努力は必要なのでしょう。


N響、練習。夜、ジパング。

posted by take at 21:04| 活動報告