2015年09月02日

密度萌え


今日学生と話していて判明したこと。

若い世代は “ちりめんビブラート” という言葉を知らない。

僕も随分長い間この言葉を発してない。へたすりゃ10年以上。そう、今はあのセンプレ細かく揺れるビブラートを聞くこと自体がなくなった。巷はセンスよいビブラートに画一化されたのか。その種類やスタイルを語り合うこともなくなった。

万人受けではないにせよ、あの時代には、どの楽器にもちりめんビブラートを使う人はいたし、中には名手と呼ばれる演奏家もいた。

そう、あの個性は、許容される “味” のひとつだったのだろう。





今日Facebook上で、大変に興味深いブログを見た。あるフルーティストの方のもの。内容は、『50代を超えるフルーティストたちが口をそろえて言う 「最近のフルートはつまらなくなった」 ということに関しての考察』 なのですが、これは、もしかしたら全ての楽器の年長者が少なからず感じている印象かもしれない。

しかしこの意見、丁寧に扱わないと、ただの年寄りのノスタルジーと思われてしまうもの。実は僕自身も、つまらないとまでは言うつもりはないが、ある種の

“淡白さ”

を感じることはある。


ブログでは “黄金期ともいえるかつての時代の名手は、みな素晴らしくみな違っていた”と。そのことについての疑問をとあるドイツ人に投げた時のことが書かれている。

「昔と今では表現の幅の差のつけ方が全然違うように感じるのですが、何が違ったのでしょうか?」

という質問に対し

「ああ、それは密度だ」

との答えがあり、瞬時に腑に落ちたということが書かれている。これは響きの密度に対する要求の仕方のことのようで、フルーティストの響かせ方、それが生む表現のタイプに対する意見が綴られている。



トロンボーン吹きとして、冷静に考察したい。僕はさっき淡白さと書いたが、これは

“洗練された透明感のある美しさ、臭みのない上品な表現”

と同居している。

たかだか30年前だが、それでもあのころの楽器は今のものより響きにくく、きつかった。更に現代よりも情報の流通量はとても少なく、スピードも遅かった。故にトレーニングシステムも世界中様々であり、我々も手探りな部分が多かった。

そんな時代は、本来きつい金管楽器を、ある意味我流で征服し扱いこなすのが、名手への道というイメージがあった。テンポ感やビブラートも多様。好き勝手に自由にできている人がうまい人、扱いかねている人は音も並ばずヘタな人。粗っぽく言うとそんな雰囲気だった。

その後楽器は、本来の金属、本来の形がより響くように改良され、トレーニング法含めた情報の共有も相まり、世界中が似通ったサウンド、プレーになっていく。クオリティの差のみの方向へ。

ジョー・アレッシに言わせると

「“正しい”吹き方をする人が増えた」

と。

要求は、より透明度高い美しさで、より幅広く大きく、より正確に速く、より高い完成度で、そしてより自然な流れ、表現でとなっていっている。

そして、画一的な評価が拡がることから、演奏する側がそれを求める意識が生まれ、

『濃ゆい濃密なサウンド、臭いくらい濃厚な表現』

を避けていく。鼻血がでるくらい感情過多なビブラートも影をひそめ、不自然か自然か紙一重の大胆なアゴーギグも姿を消す方向へ。

実際、僕自身学生にそう要求しているし、自分の演奏もそちらへと意識がいっています。(あれでも…)


しかし、いずれ時代が回帰することもあるでしょう。優れた技術は残り、更なる個性的な表現は、必ず戻ってくると思うのです。人間の感性には、画一も限界も無いでしょうから。現代を生きる我々も、油も塩分もカロリーも過多な濃ゆさを時々思い出すことも必要かと、思いました。


「濃 will be back!!」


四年生、試験。
昨日、興味本位で近所の二郎系ラーメンを食べてみた。あまりに濃く、でかく、くどく、カロリストであり、何より物凄かった。正直僕にはきつく、楽しみきれなかった。音楽とラーメンは違うと思った。

posted by take at 18:56| 活動報告