2015年08月31日

知られざるタコの野望


しつこくタコなんですけどね……

今までタコについて考察したこのブログを総括すると、

“うどん県民は、世界で一番優れた頭脳を食べまくっている罪深き人々である”

となる。

タコは寿命が1年から3年であり、あのパウルのようにワールドカップの予想をするにも、その生をうけた時代次第で不可能なものもいる。そんな中、パウルはいい時を生き抜き、更に能力を見せつけ、タコの地位向上に貢献したとなっている。しかしこれには……


確かにタコもイカも、あの生活態度を見ていると全く聡明には見えない。イカが退屈することがあるったって、逆にやる気スイッチやアクティブな言動を一度も拝んだことはないではなイカ。


しかしそれも、聡明さを隠す為の策略なのである。


タコは長生きの為の薬 『多幸』 を既に開発しており、それを飲んだ連中は、30年ものタコ生を手に入れている。彼らは深海にて日夜 (ずっと暗いが) タコシティの建設に励んでいる。それはタコが

「このタコっ」

と言われながら、人類からずっと炒めつけられてきたことへの反逆であり、故に人間に知られないように密かに遂行されているのだ。

しかし、人間に疑われないためには知恵が必要。パウルのように優れた頭脳を公に示してしまうことは、逆に怪しまれてしまう行為であり、ソロパフォーマンスに走った (歩いた) パウルは、タコ総長の逆鱗に触れた。「タコク(蛸食)に魂を売った」 とされたパウルが暗殺されその生涯を終えたことは、実は密やかに墨に塗られてしまったため、人類の知らないところとなる。ちなみにスミパイナーは、ドイツの情報局秘密情報部の工作タコ 008 であると言われている。

タコ族は、その叡知と実力を人類に知られないため、『多幸』 を飲んでいない普通のタコたちをタコ柱として人類に捕まえさせ、食させ、油断させているのである。


そんなタコ。世界で一番食べるのは日本人であり、日本で一番消費量が多いのは香川県である。うどん屋には大抵イイダコの天ぷらがあり、県民の大好物として、タコシティ建設の為に毎日多くの若タコたちが身をなげうっている。


うどん県民は知らない。

タコシティが完成したあかつきに、最初に墨攻撃の対象になっているのが、香川県であることを。そして既に工作タコ 001から009たちが、人間の姿をし町に潜んでいることを。

ほら、あのタコおやじのことですよ。


川越へ。

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2015年08月30日

ホルンって


今日は一日ブロカートディです。朝から金管のパートとそれぞれおつきあい。夜は合奏。


金管はいつもはまとまって分奏しているのですが、今回からパート別に分けて一緒に吹くことにしました。場所は我が家です。


朝トップバッターはトランペット。いつもインCの譜面しか見ていないトロンボーン吹き。インFやインDは対応できるのですが、インAの譜面に四苦八苦。これは練習しないと、指導者としてはあきまへん。しかし一緒に吹くことで彼らの癖が少しずつわかってきました。これは繰り返しやった方がよいようです。


午後イチはトロンボーン・チューバ。部屋は凄くは広くないので、凄い音が空間に溢れます。やりながら思ったのですが、本当にトロンボーンやチューバって音が大きいんですね。皆さんにとっては周知の事実かもしれませんが、比べると

“大きいし、賑やかなんだなあ”

と思ってしまいました。


そしてホルン。各パートを、セクションに入って吹いていきます。

チャイコフスキー、ストラビンスキー

高い方は高いし、低い方は低い。普段オーケストラでいろんな音域を吹く身としても、

「これは大変だ」

と実感できました。


ホルンって、本当に上下が必要で、各々のスペシャリストこそを望まれるんだろうなあと、あらためて理解できました。

んくらい、高いのも低いのも大変だったのです。

理解を深めるためには、いろいろやってみるもんですね。

いちんち、ブロカート。

posted by take at 23:50| 活動報告

2015年08月29日

プロであり続けるために


今日の内容、決してアマチュアの方々、世界、アマチュアィズムをばかにしたり低く見ての意見ではありません。どちらかと言えば

プロフェッショナルとはなんだ

という長年の考察に対する、現時点で思うこと。僕はアマチュアィズムには敬意をはらって、様々おつきあいをさせてもらっています。是非誤解を生まないことを願います。



プロとアマチュアの違いというのは、いろんな言葉で語れると思います。

そのことでお金を稼ぐのがプロ、お金を払ってでも楽しむのがアマチュア。技術的なクオリティを言うこともできるし、責任感含めメンタル的なことを比べることもできる。


僕は永らく

“正確なのがプロ、そこまで正確ではないのがアマチュア”

と言ってきた。これは、演奏家だけでなく全てのジャンルに渡って。もちろん双方において例外もありうることでしょう。

しかし、演奏家であれスポーツ選手であれ、料理人であれ商売人であれ、漁師であれ農業や林業に従事してる人であれ、全てのジャンルのプロに、目的達成に向けたクオリティの内容として

“正確さ”

があり、そこに対して対価を払う価値があるのだろうと思ってきました(今も思ってます)。


最近、時間を伴うメンタリティとして、また違う観点で見えてきたことがある。

プロとは

“自分が苦手なこと、出来ないことにこそ立ち向かい、なんとか克服しようと努力をし、結局は個性を表現、評価されながらも、オールマイティーを目指し諦めず生き続ける人”


アマチュアとは

“自分が出来ること、得意なことを意識し……”


もちろん、アマチュアの方々も、自分を進化させる努力をしている方はたくさんいらっしゃるのは重々わかっています。是非気分を悪くなさらないでください。

ただ、プロというのは出来ないことがあるとダメなのです。しかしどんなプロでも、得意な部分もあれば苦手なこともある。このことに関しては、アマチュアと同じ。で、その全てが及第点でなくてはならず、落第点があると具合が悪い。更に及第点だからといって、

「そこはそれでいいや」

と、今の自分の技術と感性を切り売りするのではなく、

「やっぱり何とかクオリティを上げ、得意にならなきゃなあ」

と、そこにこそ力を使うような人でなくてはならない。

何せ周りには、僕にとって難題である技術、感性、魅力度に関して、シレッと鮮やかに表現してしまう人がいるわけで、そんな表現を知らないならともかく、プロのフィールドにはゴチャマンといたりし、目の当たりしまくるわけで、目をつぶるわけにはいかず………


もしかしたら提供される側からしたら、オールマイティーというもの自体にはさほどの欲求はわかず、どちらかといえば突き抜けた個性を欲する価値観があるのでは、と推察できます。

それはもちろん必要です。得意技としての個性は、もちろん意識し発信しなければならない。しかし、その個性ですらもガラスの自信に支えられてたりする。

なぜなら、自分がオールマイティーでないことを知っているから。そして、そこから逃げているのでは、真のプロでないことが、本能でわかるからです。


ヒューブラー練習。コンクールの本選を聞く。夜、CDジャケット撮影。

posted by take at 14:21| 活動報告

2015年08月28日

時字ネタ


楽器の選定をし選定書にサインをする。漢字です。

たけ 「最近めっきり、字書かなくなったなあ」

ホテルにチェックインする際の住所や名前、あと……

T 「手帳に書きますよね」

机に出てる僕のシステム手帳を見て、楽器屋さんが言った。そーね、人によってはスケジュールを携帯に打ち込む人もいるから、その人はもっと書かんのよね。

T 「でも、手帳に書く字も、何気に限られてますよね」

たけ 「だね。川とか越とか。あと講評を書くときか。あれ信じられないような簡単な漢字が出てこなくて、机の下で携帯で検索したりすんのよ。周り見たら、みんなもスマホポチポチしてたりするけどね。こんな字も忘れてしまうのかと、自分の劣化、書けなさ加減に愕然とすんのよね。何を検索したかは、恥ずかし過ぎて人には言えんなあ」

先日テレビで

“小さい字を回数書くのは、脳が重要じゃないと認識し頭に入りにくいもの。大きく、一回だけ書いた方が覚える”

というのをやっていた。

たけ 「漢字ドリルそのものを否定している話やな。でも回数書くことで、書く訓練にはなってるよね」

T 「ですよね」

この後二人で同時に気づくことになる。いくら訓練しても、今は書くタイミングがほとんど無いことに。

なんだか、書けなくなっていく自分に、強い不安が宿るが、同時に書かなくてすむ世の中になっていってるのも事実。

これもテレビでやっていたが、授業の内容をノートにとるのとパソコンで打ち込むのだと、頭に入るのは同じだと。ノートにとる方が入る気がしますが、実際は変わらないそうです。

たけ 「考えてみたら、今の方が、難しい言葉や漢字を駆使して文章作ってるよね。変換変換で。それを書けって言われたら、辞書使いながらでも面倒くさくなってしまうよね。あの頃は、簡単な文章しか書いてなかった気がする」

ということは、進化してるとも言えるのですが。

僕は明らか、年々字数は減り口数は増えている。人間は手を使って万物を生み出さなければならないのに、口からばかり生むは生むは。

飲んでる間中、同じことを何度も話してたりする。周りの人間の脳が重要じゃないと判断し、彼らの頭に入れる気が無くなっているのは明白である。だからといって、一回だけ大きな声で言ったところで、誰も聞いちゃいない。

じゃあ、字で書けったって、ヨッパッピーのは酷いもんです。限られたことしか書いてないはずの手帳に、何書いてあるのかわかんなくて、翌朝青くなってたりしますから。


選定。

posted by take at 19:06| 活動報告

2015年08月27日

勇気の無さという重荷


謝れない人が、わかっていないことがある。


謝らなくてよいのではなく、謝らなければならないのです。


昭和一桁生まれの人は、どんなに自分に非があっても謝らないという気質があった、と何度か聞いたことがある。西洋にもあるパターンだったりする。

「謝ると負けである。自分の非は簡単に認めてはならない」

しかし、これは無理がある。その価値観では限界がある。


悪くもないのに直ぐ 「ごめんなさい」 と言う人もいる。

良くない。

ごめんなさいの安売りは、自分が正直ではないと言ってまわっているようなものだ。

じゃあなんでも正直じゃなきゃならないのか?

いや、人に迷惑かけたり気を遣わせなくてすむなら、正直に表現する必要もないでしょう。

でもね、よく見たら、大抵周りに気を遣わせてますよ。


嘘をつかない人はいないのと同じで、周りや社会、家族や仲間に対してだって、全くイカンことしない人っていない。子供の頃からきちんとしつけられても、それでも大人になり自分本意で動き、周りに対して悪いことをしてしまうことは、全ての人にあるでしょう。

それを恥じ、まずいと思い、その懺悔の気持ちを反省に変え、少しでも変わるには

謝らないことには、スタートしないのです。

そうやって無駄に重荷を持ち続ける時間を回避する方向に、自分をもっていかなくてはならない。

重荷を持ち続け、楽になろうとし、気がつくとまた重荷を増やすような方向ではだめ。そんな人こそ、周りを悩ませ気を遣わせてる。誰も幸せにならない。


正直に謝れない人がわかってないことがある。

謝らなくてよいのではなく、謝らなければならないのです。

何よりも自分のために。


警察音楽隊、レッスン。夜、ホルンアンサンブル。

posted by take at 20:23| 活動報告