2019年09月17日

挑戦しない日がない


引退したイチローの言葉は、改めて示唆に富むものとして心に響く。


「私のキャリアを振り替えって、その中に誇れることがあるとしたら、2001年の初めてのゲームから2019年の最後のゲームの日まで、日々挑戦をしつづけ、情熱を持ちつづけてきたことです。プロフェッショナルとは何か?毎日、同じ情熱を持ち、自分のやるべきことをやることが必要なんです」


言葉はシンプル。なんなら、自分もそう思ってるよと言う人もいるかもしれない。


僕は「情熱」というワードは永遠の課題として、自分も生徒たちも向き合うべき内在力だと思っているし、その有無は絶対的なものとして、運命に影響を与えているだろうと思ってきた。


イチローのもうひとつの言葉、「日々挑戦をしつづける」


これだ!


毎日、挑戦しているだろうか。毎日、突き動かされるように瞬発的に、躊躇なく克服への壁に全速力でぶつかりにいっているだろうか。


それは、絶対的不可欠なこととして、僕の価値観に深く刺さることになった。


N響定期練習、大塚へ

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2019年09月16日

バランスを凌駕する音


オーケストラにおける音量バランス。

「木管楽器や弦楽器をかき消すような金管の音量が必要な場面て?」という話になる。

実はあったとしても、一曲の中で限られたシーンだろうと。それにしてはプロアマ問わず吹きすぎる場面、大きすぎる場面が多い。旋律やオブリガートを吹いている木管楽器がちゃんと聞こえるようなバランス感覚を持つことは、本当に大切だと思うという意見を聞いた。


本当にその通り。


同時に、そうは言っても大きな音で吹きたいだけ吹き込みたい衝動は、本能としてあるよねという話にも。落とすばかりだとストレス溜まるし気持ちよくないでしょと。

金管奏者ばかりで話していたので、皆納得。

実際、とても大きな音が出るようになった現代の奏者たちも、まだベクトルは「更に大きな音が出るように」の方を向いているのが現実だ。デシベルとしての音量は、もうかなり大きいところまできているにもかかわらずだ。


議論の最後に、僕の夢を語った。


これは永遠の夢、目標なんですが、目一杯吹き込みたいだけ吹いて凄く大きな音だったとしても、ベルの近くにいる人からも客席にいる人からも、一切クレームのこない音をいつかゲットしたい。不快になるうるささや力みのない、美しさと包み込まれるような大きさ。とにかく不快要素は一切なく、快感にしか感じられない音です。1人で全体を包み込むような音が出せれば、周りの幸せに貢献できるでしょうし。


まあ理想論なんですが、本音として吹きたいように吹き込みたいなら、それを目指すしかないし、金管でそれができたとき、驚くほど素晴らしいサウンドになっているのでしょうから。


大塚へ、レッスン

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2019年09月15日

相手を困らせない


自分が相手(周り)を困らせているかどうか。


周りはよくわかっている。

自分こそがわかった方がいいですね。


前向きに頑張って努力したけど失敗して…というのは、まだ許される可能性はあるし、内容いかんではなんなら「それも良し」となる。

しかし、自分を押し通すことで周りが困るのだとしたら、本当に周りから困らされているから押し通す、だから押し通すべき内容なのかは、一度考察した方がいい。


基本自分の主義主張を通せば、よっぽどシンプルな正誤でない限り、周りとは反目する可能性は高い。

つまり大抵の場合は、自分が相手に合わせているか、合わせてもらっているか。

それが困惑の手前のレベルなら「今回は君を優先、次回は僕」でいいのだが、それを超えたなら相手が困りながらも折れている場合は多い。(特に日本)

あまりに自分以外の人を困らせるようなことをしてるなら、「それでも良い」はずはない。開き直るべきではない。

開き直るというか、そもそも周りを困らせていることに気づいてない場合が多いので、とにかく敏感になるために、自分の言動の正誤を確認する癖をつけた方がいい。


まずは、自分が不本意でも何度か他人の意見の方を選び心底尊重してみる。すると、自分の価値観が幅広く豊かに成長していくのでしょう。


若い頃ある人の葬儀に出た際、息子さんが話していた言葉がずっと残っている。


「父は、家族の中でいつも自分が最後の人でした。母や子供たちが一番目や二番目。自分は必ず最後。そんな父のおかげで、家族は幸せに暮らせたのだと思います」


そんな父のおかげで、周りは困らなかったのだろう。


N響定期、ブロカート

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2019年09月14日

一生のような演奏


それでも、クリムトの作品は期間中は展示されていたわけで、悠久のときの流れからすると一瞬かもしれないが、演奏のように本当の意味での瞬間とは言い難い。

「一定期間経つと壊されて無くなるのがわかっていて制作」という意味での一瞬なのだろう。


私たちの演奏は、全てが終わったら消えてなくなるのではなく、随時派生しては消え、作品(演奏)そのものが姿形をどんどん変えていくこと含め「ひとつの作品」。

だから瞬間だけを仕立てようとすると、それは片手落ちになる。

そもそも瞬間の次には次の瞬間がやってきて印象を放つわけで、仕立てた瞬間を並べようとしただけでは、本当の意味での「演奏された時間(一定の長さの時間)を素晴らしく感じてもらう」としては、良い印象を持ってもらえない。

印象の羅列による一作品。その印象たちは、強い意味を持って繋がってなくてはならず、実はその繋がり方こそが最終評価の対象になる。


インターネット時短により「待ちわびる喜び」こそが失われつつある現代ですが、目的地へ向かいながら何かが溜まり、そして感動の到着点から収束へと、その流れ全てが一山として組み立てられなければならない。まさに「待ちわび」も「会えた」も全てを感じながら。


指揮者も演奏家も、瞬間を意識して作り上げることが多くなっている印象だが、音楽が人の人生と同じ流れ方だから好まれているのは、21世紀になっても何も変わっていない。


人生というか、一生という時間の流れとリンクするような演奏をすべきだと思う。

人間はそれを求め、音楽を生んでいるのだと思うから。


N響定期

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2019年09月13日

クリムトがした演奏


クリムト展で観た「ベートーベン・フリーズ」(1901)。縦約2メートル、横幅34メートルの壁画は圧巻だった。

ベートーベンの第九に基づいており、「幸福への憧れ」「敵対する勢力」「歓喜の歌」に分かれた巨大な作品。

何十回と演奏してきた音楽のメッセージがこういう形で絡み、生み出され存在していることに、少なからず驚愕し、芸術に対する精神のコラボレーションを眼前に、特別な場所と時間に立ち尽くしていることを身体全体で感じていた。


とある識者の言葉を聞く。

実はベートーベンがシラーのテキストを元に世界をつなぐ人類愛を奏でようとしたものに対し、クリムトはためらいのないエロスの表現で示したことは、当然問題意識と議論を生んだ。裸の男女の抱擁含め、当時「不貞」「淫欲」「不摂生」の暗喩は非難の的になったと。

そしてこの作品は、第14回ウィーン分離派展覧会開催中に限る展示だったため、取り壊される予定だったが、実際解体作業に入るのを見たとあるパトロンが買い取ったため、現在私たちも観ることができ感じ考えることができるのだそうだ。

その一過性とも言える制作意識が、大胆かつためらいのない表現を生んだのではないか。それは実は、瞬間の印象を生み消えてなくなる音楽の演奏のようなものだったのではないかと。


私たち演奏家は、安全で確実、時間をかけて検証しうるものではなく、クリムトの大胆さ、やってしまえという判断力と共に生きているのかもしれない。

もちろんトレーニングは緻密に確実にやるが、本番が終わってしまった後に、四の五の言い訳や解説をする言葉は、存在する意味が全くないのだから。


N響定期練習、レッスン

posted by take at 10:10| 活動報告