2012年05月20日
急ぐべきか 急がざるべきか
20代の頃、ドイツ留学から一時帰国していたあるプレイヤーから、こう聞かれたことがある。
「吉川は、今すぐになんでも吹けるようになりたい?」
僕はこの質問の内容自体に驚いた。
「もちろんです。今日にも、明日にもなんでも吹けるようになりたいです…」
この返答で “正解” だと思ったのだが、その人は僕の想定外の意見を投げてきた。
「俺は、今すぐ上手くならなくていい。数年後になんでもできるようになるために、毎日トレーニングをする」
もちろん、この言葉の意味は自分がドイツで学ぶことによって、深く理解することができたのだが、だがしかし “何か”がずっとひっかかっている。
その “何か”とは、すぐにでもいろんなことが吹けなくてもいい、というメンタルで果たして吹けるようになるのだろうか?ということ。
『トロンボーンは一日にして鳴らず』
ということはよく理解できている。ルーティンを含め、地道に繰り返すことによって “随分先のある日” 演奏できるようになるようなプロセスこそが、最も説得力があり必用なことだということも。一日二日でできるようになるようなやり方、道具では、プレーと表現力には限界があると。
しかし “求めよ、されば与えられん” であり、求める欲求がリアルタイムでふつふつと沸き上がってこないことには、辿り着かないのも確かなこと。
僕自身のトロンボーンに関しては、今更このことでは悩むことはなく、後はどこまで高みを追求するかにかかっているが “生徒達” にどう求めるか?は、もの凄く大きな課題だ。
一番必要なことは、生徒自身が研究し、求め、努力し、上手くなり、充実感と未来への希望を強く感じることができる “環境作り” だ。しかし、生徒がそう感じるためには、実は環境全体のレベルこそが最も大きく影響する。高いレベルを要求することが、不可欠になってくるのだ。
「君たちは君たち。いつかうまくなればいいよ。だから今はその程度でいいんじゃない?」
では、結果 “想定以上” に上手くならない。
すると、僕の場合多少(かなり?) 急いでしまう。“それなりに示す” だけに留めたいところ、より多く示し、やたら伝えようとしてしまう。そのことによって、生徒達は自発的というよりは “依存” するようになり、 結果出来るようになることもあれば、やっぱりできないことも。何より、自分から求め研究する、というスタンスではなくなっていく。最も危険な限界が出来上がっていく。
高いレベルの環境では、本人も周りも先生も、だれもわからないような “刺激的化学反応” があるのだと思う。言葉とかレッスンではなく、レベルの高い音、技術、音楽が渦巻くことで、自動的に高い目的意識、プレッシャーが宿る。そして何よりも “上達意欲” と “喜び” がもたらされるのだと思う。誰だって “美しい、凄い、素晴らしい演奏” をしたがっているはずだし、たまたまでもそれが出来たほうが、嬉しいに決まっているから……
と、考えてしまい急いでしまうのだ。
今の命題は、急ぎつつも長いスパンで彼等を見守る。しかし、あるところで “突き放す” ことによって、自分で自分を見つめ、鼻息荒くなってもらうやり方。
「僕の演奏をよく聞いて。でも僕の真似をしないで」
ヘルマン・バウマンの言葉は、とても深く、永遠の課題を投げ掛けてくれる。
川越。夜ブロカート。
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2012年05月19日
太陽
太陽の光が、日によってかなりキャラが違うのは、日々無意識に感じていることですね。同じように晴れていても肌に当たる感じ、地面に反射する感じ、結構いろいろあります。
今日は、気温と風がもの凄く気持ちよく、朝泉岳寺まで歩くのも、NHKホールへ向かうのも、気持ちいい…いい……いい。
それと、太陽がかなり “やる気” を見せていて、年に数回しかない “眩しく” 感じる日。“輝かしい!” とでもいうか。もちろん直接見るわけではなく、道路とか建物に反射する光が、いつも以上に主張していて “活き” がいいように感じる。そら太陽のせいではなく、空気のキャラの問題なのだろうが、僕は天達さん、良純さんとは生きざまが違うので、詳しいことはわからない。単純に空気がきれいだから、光がより多く届いているのだろう、と勝手に思っている。空の青も違って見える、透明度の高い青………い〜い感じ。
こういう日
「太陽が、近く感じる」
という発言を聞いたことがある。見事な表現。まことにスーっと入ってくる言葉。
ヨーロッパは、こういう日が多い。多くの画家は、この太陽の光が照らした対象を、艶やかな色合いで想像力豊かに画いてきた。イタリアの太陽、スペインの太陽、想像しただけで、ワックワクする。色を操る人達にとって、これ以上ないインスピレーションの活性剤。
ドイツでも、
『昼から外でビールを飲む』
という行為以外は困難を極める程、特別な快楽、限定されたプランへと導かれる。全ては命の源 “太陽” のせい。
決して 「仕事をさぼりたい」 とか、「ま、いっか、夕方からちゃんとすれば…」 という “さぼりズム” の “ゆるめンタル” ではなく、あの(上を指差し) “太陽さま” が!ビールへと誘導するのだ。逆らうことはできないし、実は逆らってはならない。
なぜなら、数少ない特別な日としての特権であり(あ…ヨーロッパでは多いと書いたばかりだった) ここで、この太陽の光の下、ビールを飲んでおかないと、おひさんのやる気がない日には更にストレスが溜まってしまい、仕事にもの凄く影響する。不寛容が商談を決裂させ、リーダーの決断力を鈍らせる。労働者の意欲を減退させ、店主も “いっか、今日は臨時休業で…” と生産性はがた落ちになるのだ。
太陽の光には、私達が思っている以上の力がある………そうに違いない。
3時からのN響定期、その前にビールを飲むことは、私にとって容易いことだ。しかし、聡明で賢明な私は飲まずに本番に向かうことにしよう。なぜなら、飲むと、ただでさえ素晴らしい演奏が、
“素晴らしすぎる演奏”
になってしまうからだ。
朝レッスン。午後、定期二日目。
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2012年05月18日
70億分の1億3000万分の3万分の200
昨晩、N-craftsの練習後新宿へ移動。友人Y君と “打合せ” と称し飲む。8月にやる小さなプライベートコンサートの打合せ。
そのコンサート、本当に限られたコミュニティの方を対象に行うもので、改めて主旨をY君と話し合い、理解し合う。その会話の中で、僕が例の話をする。
「どんな人も、生涯で、本当に親しく付き合うのは200人くらいらしいよ」
するとY君から、新しい数字が聞けた。
「生涯に “出会う” のは、30,000人くらいらしいですね」
そっか、それは知らなかった。
世界の人口、70億人、その内の1億3,000万人が日本人。世界の人口、約54人に一人が日本人。お!けっこう多いなあ。(中国人は14億人、世界の5人に1人、おおっ!!)
その1億3,000万人の内、30,000人の人と出会うと。4,333人に1人の人と会う計算。その中から、本当に親しく付き合う人は200人。出会った30,000人の内、150人に一人。出会った150人の人の内、149人の人とは親しくならない。というか、出会った30,000人の内、29,800人の人とは親しくならない、なれない。日本人1億3,000万人の内、1億2999万9800人の人とは、親しくなれない。それが、人の許容量。人の人生。
世界中の、69億9997万人の人とは出会わないし、69億9999万9800人の人とは親しくならない。
自分の人生が上手くいかない時、親しく付き合っている、周りの200人の人のせいにすることは多い。親しい人から影響を受け、親しい人との関係に悩む。親しい200人 “以外の人” に出会うことを望む人もいたりする。
しかし、僕はこの物凄い確率で出会った人こそが、僕にとって大切な人なのだと思う。
今までより、更にその人達を大切に思い、その人達と出会えたことを幸せに感じ、感謝し、運命を受け入れ、200人の人とだけ生きていこう。
全ては、僕の思い次第だと思う。
N響、定期本番。
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2012年05月17日
歩く道
今朝も、N響の練習場まで歩いてみた。約35分、4300歩程稼げた。
途中までの行き方は大きく分けて2通りある。目黒川沿いから、すぐ第一京浜に出て、ひたすら泉岳寺を目指すパターン。もうひとつは、途中まで旧東海道を歩き、第一京浜旧に合流するパターン。早いのは第一京浜をずっと行く方だと思うのだが、今日は旧東海道を歩いてみた。その方が “信号” が少ない気がしたのだ。
案の定、第一京浜に出るまでの信号は一ヶ所しかない。ただ京急の踏み切り待ちがある。第一京浜に出てからも、京急と山手線の線路に沿った方を歩くと信号が少ないことがわかった。
35分も歩いて、遭遇する信号がたったの三つ、踏み切りひとつ。運が良ければ、止まらずに歩ききれることもわかった。
ただ問題は、車が多い道を長く歩くこと。
アメリカでは “自転車通勤が良くない” という意見が主流になってきていると聞いた。大都会の排気ガスを、有酸素運動で過剰に大量に取り込んでしまう。一度入るとなかなか抜けず、身体にとって極めて良くないと。
第一京浜も車の量は多く、空気は汚れている。
マスクか何か、対策をねらなければならない。
それにしても、歩いた後はなぜか “スッキリ” している。やはり、少しでも運動っぽいことをやっている、という安心感は大きい。
ジムに通っていた時もそうだった。実際に身体の調子が良くなるのは、もちろんいいのだが、それ以上に “運動した方がいいのにしてないなあコンプレックス” がなくなるのは、精神的に極めて良い。“やってない” のと “やっている” 差はメンタル的にとても大きいのだ。
連日一万歩を超え、太ももの当たりが多少の筋肉痛を感じている。この痛みが前向きなエネルギーを、導きだしてくれている。
簡単に洗脳され、上向きになれている。
頑張って “歩く” 続けてみよう。
N響練習、最終日。終わって、N-crafts練習。
posted by take at 19:25| 活動報告
2012年05月16日
バーンスタイン 交響曲第一番 「エレミア」
バーンスタインの交響曲がスケジュール表に載った時 “おっ” と思った。
ワーグナーの交響曲があることを知らなくても、“作曲家バーンスタイン”の作品が 「ウエストサイド物語」 だけではなく、交響曲やバレエ、オペラもあるというのは多くの人が知っている話。そして、それらが演奏される機会がとても少ないのも知っている。特に三曲ある交響曲、本当に演奏されない印象。
僕は、そこには興味がたどり着いておらず、指揮者バーンスタインの演奏はかなり好きで、たくさん聴きあさったくせに、作品自体は聞いたことがなかった。
理由は 「こんだけ演奏されないのだから、つまらないのだろう」 と決めつけてしまっているというあれ。
しかし、唯一身近な 「ウエストサイド物語」 は、その素晴らしさを十分理解している、というか完全に心奪われてから久しい。映画バージョン、サウンドトラックのナンバーは全てが魅惑的で、ステージ上での 「シンフォニックダンス」 では、幾度となく感動的な霊感を体験した。ジパングでやったナンバーは、その中からようよう選んだ曲達で、本当はミュージカル分全部やりたかったくらい惹かれている。特にエンディングは、聴いていても吹いていても、いつも心がもってかれてしまう。演出、ステージ、全てが僕とジパングのかけがえのない宝物になっている。
じゃ、他の作品も聴けばいいじゃん。
そう、すこし矛盾している。その矛盾が “おっ!” を呼び起こした。この年になってなんだが、バーンスタインの交響曲、本当はどんなものなのか確認してみよう、との気持ちと共に昨日からの練習に挑んだ。
30分たらずの三楽章。彼が、まだ無名時代に作曲コンクールに出され落選したが、父親サミュエルに捧げられた作品。バーンスタインが自身がユダヤ系という血筋を強く意識しており、終楽章の歌詞は、旧約聖書のエレミアの哀歌より取られている、また、全曲を通してヘブライ式の聖書詠唱の旋律を動機として用いている、とのこと。
特に第二楽章は、リズムが複雑でかなり難しく、N響をもってしても気合いを入れないと、仕上がらない。第三楽章は、メゾソプラノの歌、深刻な世界観が拡がる。
悪くないじゃない。十分力も魅力も感じられる。きっと 「ウエストサイド」 が凄すぎて、期待値が高いのだろう。
やっているうちに、バーンスタインの、というより作曲年代の方が気になり始めた。1939年から1942年、昭和でいえば14年から17年。つまり第二次世界大戦の開戦の年から書きはじめ、戦争中に出来上がった曲なのだ。
実は先月、マエストロ・ノリントンとやった、ティペットの交響曲は終戦の年、1945年の作品だった。
18世紀や19世紀の作品で、歴史上の戦争や不幸と絡んでいるもの、20世紀の例えばショスタコーヴィッチのように、ロシア革命等と絡んでいても、演奏しながら、背景からの印象を多少なりとは感じてはいる。
しかし、第二次世界大戦となると、戦後生まれの自分にも “印象” 以上に深く思い込んでしまうものがある。
戦時中、そして終戦の年に書かれた、アメリカの、イギリスの作曲家の作品を日本人として表現し、聴衆のみなさんに聴いていただく。作曲家の気持ちやスタンスは、全て想像の域を出ないが 、“ただ演奏する” という以上の意味を考える。
やるならばベストを尽くすし、今自分が演奏する意味合いも深く考えて取り組む。良い演奏を目指すことはなにも変わらない。音楽の価値を判断するのは、聴衆であろう。
N響、練習二日目。終わって川越。
posted by take at 17:14| 活動報告