2018年08月13日

好きな場面


描きたい対象を定めた方が良いのと同じように、一曲の中でも「一番好きな場面」というのは必ずあるはず。

カラオケで歌うような曲なら、サビの部分ということが多いだろう。

クラッシックの作品でも、盛り上がりの頂点あたりが魅力的というのは作曲が成功しているとも言える。

もちろんそうでない箇所、盛り上がりに向かっていく行き始めが好きだとか、構成に関係なくこの和声の移り変わりが好きだとか、いろいろだろう。演奏者によって異なることも考えられる。


いずれにせよ、その「自分が好きな場面」というのははっきり意識できた方が良い。

それ以外の部分が好きになれず手を抜くなんてことではなく、その好きな場面を「最高の表現」にするために、それまでとその後をどう仕立てるか、という取り組み方が良いと思うのです。


自分が取り組む作品は少なくとも好意をもってやるべきだから、箇所によって好き嫌いがはっきりあるというより(嫌ってしまうと生産性下がるから)


凄く好きな場面と、そこを好き好き言いたいから、その周りにまあまあ気に入っている箇所があり、それがはっきりしている


というのが良いのではないだろうか。


休日
人間もそう。どんなに好きな相手でも、とても愛でるところとまあまあなところ、ちょっとは気になってしまうとこもあるでしょう。

posted by take at 10:39| 活動報告

2018年08月12日

描きたいもの


絵画というのは、描きたい対象がはっきりしており、一枚の絵の中でも、あれもこれもではなく「ここのこれ」を描きたいから全体をこう描いているというのがとても大切なのだそう。

実は絵画教室の世界では、そのかなり手前の段階、そこが既にはっきり定まらない世界もあるらしい。


「せめて、写実に描きたいのか、印象派風なのか、前衛的に表現させたいのか、それをはっきりさせましょう」


という先生のアプローチがあるようだ。


これを聞いたとき「自分のやりたい音楽を」という正論を求めることもできるが、

「そもそも今の君は、歌こそなのか、テクニックを全面に出したいのか、音色に酔ってほしいのか、はっきりせい!」


と言った方がいい気がしました。


ブロカート

posted by take at 22:36| 活動報告

2018年08月11日

人生の試練に打ち勝て


大勝軒に入ると、創始者山岸一雄さんの

『人生の試練に打ち勝て』

という、弟子に送った言葉が張ってあったりします。僕は若い頃、最初にこの張り紙を見て

「そうか、こんなに人気で有名なつけめん屋をやりきるのも、人生の試練とまで言う難所があったりするのか」

と、ぼやっと思ったのでした。

山岸さんの回顧文から、若き日からの過労による足の病気、早くに奥様が亡くなったという二つがそうだとわかります。ラーメン自体のことではないのだとは思ったのですが、しかし細かいハードルは仕事においても人間関係においてももちろんあったのでしょう。


実は最近、この『人生の試練』というのがなんとなくわかるし、それに打ち勝つことができる生き方をすることは物凄く大事だなと感じ、生徒に話したりします。

目の前の試練から、逃げないで欲しい。


大きな試練は必ずやってくる。いくつかは必ず。それがこない人なんていないんじゃないかな。

小さなハードルは乗り越えられたが、大きな試練からは結局逃げてしまった。辛い、しんどい時に自分を信じれず、どうしても頑張りきれず結局逃げてしまったという人もいるだろう。

実は、老後の時間に影響がある気がするのです。

後悔しているというだけでなく、定年後更に年をとっていく中で、生活や心が充実するか、そうではなく惰性で時間を過ごすかは、過去試練に打ち勝つプロセスを選べたかどうかが、本当に影響あるのだと思います。


山岸さんの言葉

【ラーメンに限らず、一流の職人は皆「ものづくりは心が入っていないとだめだ」と口を揃えます。同じように、私がラーメン作りで最も大切だと思っているのは、素材やお客様への感謝の心です。これまで弟子たちには、この「心」の大切さについて繰り返し言い聞かせてきました。
その原点となっているのは、幼い頃に国民学校で受けた「修身」教育です。そこでは周囲の環境に感謝し、礼儀を重んじること。そして年長者を敬い、人の見ていない所でも手を抜かず、どんな時も努力を積み重ねることの大切さを学びました。
ラーメン作りにおいて、今日までその姿勢を貫いてきたことが、大勝軒がお客様に飽きられず、行列の絶えない店であり続けられた理由かもしれません】


心こそが、試練と出くわしたときの最期の武器、その真理の姿なのかもしれません。


休日

posted by take at 10:27| 活動報告

2018年08月10日

好奇心 その2


知られた話なので企業名も書きますが

ウォークマン、コンパクトディスクを世界に放ったときのソニーの社員は「この会社で、今まで世界のどこにもなかったテクノロジーを開発したい」という人の集まりだった。

栄枯盛衰とも言われた、その後の道を歩くことになった社員たち、彼らの入社動機は「ソニーで働きたい」だった。



私たちがもれなく生まれながらに持っている好奇心。それは年と共に枯渇するのではなく、その姿を変えていくのだと思います。

若い時は、まだ知らないことが知れる喜び、経験したことがないことを経験する快感が好奇心を満足させるものだった。

しかし時間と共にあらゆることを知っていき、理屈や仕組みや現実もわかっていく時間の中で「新鮮さを享受する」という好奇心は、そのもっていく場所がどんどん無くなっていくのでしょう。

ただ人間は、惰性というテイストだけで生きていけるほど心が強くはない。

よって好奇心は「より深みを感じ、それを活かして自分こそが周りに発信していく喜び」へと、行き場を変えていくのでしょう。

簡単に言えば

「受けとるだけの内容から、発信もしていく好奇心へ」

「刺激的ばかりなものから、深き意味合いや、人の心、社会に貢献する内容への好奇心へ」

と変わっていくのだと思います。


もしノスタルジックに、あの頃の好奇心とそれが経験させてくれた喜びや快感に憧れている今なら、まさに知っていることを深く掘り下げ、より魅力的かつ少しでも刺激的にし、周りに発信し真価を問う、まあそこまで大それた内容でなくてもいいのですが、新しい快感はそんなクリエイティバーなたち位置で獲ていくのが大人だと理解し、動いてみるしかありません。


若い頃よりはのべ人数が増えた知り合い、おっくうに感じずそんな人たちにどんどん会いに出て行く辺りがスタートですかね。


川越へ

posted by take at 12:08| 活動報告

2018年08月09日

好奇心


子供の頃の話。田舎のおじいちゃんちの裏にあった森、その奥へ奥へと入っていき帰り方がわからなくなって泣き叫んでいたことがある。

自分が来た道をきちんとチェックするということを知らないような幼児期だったが、怖さあっても前へ前へと進んでいったあの原動力とは、まだ知らないことを経験してみたいという我が好奇心にほかならない。


先日年長者の回顧話を聞く機会があった。

若かりし頃の人に言えないような恥ずかしい行動を打ち明けられたその末尾に

「あのときは、みんな好奇心が強かった。とにかくやってみたかった。もう好奇心好奇心やったんや」

という発言があった。

その直後から、僕の中にはこの「好奇心」という言葉が何度も沸き上がってくるのです。


小さい頃若い頃はまだ知らないことだらけ。具体的な喜びも具体的な恐怖も、大人も社会も、時間の流れも人生も、お金も身体のことも、男なら女性も、そして森の奥もそこへ向かおうとする自分も……

知らないことは知ってみたい、楽しさや気持ちよさという快感を知れば更なるアイテムを経験してみたいという方向へは、DNAに組み込まれた欲望プログラムに対して好奇心というエネルギーが働き、本能的な流れで自分を動かしていったのでしょう。


そら公明正大なことばかりではない。やってしまってから駄目だと理解することあれば、いかん、できればそうしない方がいい、人には言えない恥ずかしさとわかってはいても、あの「好奇心」が自分を止めてくれず……



時は流れ、大体いろんなことがわかってきて、安心感と共に、平穏な日常をコントロールしながら生きていけるようになり


あの欲求は内容が変わったのか、それを発動させるより大切なことを優先しているのか

それとも、本当に与えられた一生分を使いきろうとしているのだろうか

好奇心とは、結局最期は枯渇してしまうものなのでしょうか


川越へ

posted by take at 11:27| 活動報告